中原昌也がオーラの泉に出演!?


KKKベストセラー」中原昌也

表紙を開くとカバーの折れた部分に切り取り線がある。なんだろうと表紙を見ると上のほうに***。カバーの上部を横に切ると即席ホワイトバンドが出来上がるという仕掛け。
これまで自分をさらけだすという設定で一切自分を語らずしてノイズを発し絶叫し言葉を記してきた彼の最大の「自分語らず」小説がこれだ。ここまで説明しなければ伝わらない。ここまでボケなければ誰も突っ込まない。崇高なる文学界が彼に与えた三島由紀夫賞はボケに対するボケなのか。ボケならば「三島かよ!」という突っ込みで万事おさまる。連載を打ち切ったにも関わらずこうして単行本にしてしまったのは朝日新聞社のノリ突っ込みなのか。ノリ突っ込みならば「そうそうそうこれを印刷会社に持っていって・・・」と製本してトラックに積み込まれる寸前で「ておいっ!」と突っ込んで中止するのが絶妙の間だったのに。。
自分が興味を持ったあらゆる作品から派生する騒ぎや批評などに興味はないが、それが嘘なのか本当なのか、それだけで延々悩んでしまう自分がいる。何故ならボケにはちゃんと突っ込みをしておきたいからだ。例えばsuicaはJRでしか使えないけどそれはボケなのか対象を絞り込んだ計画性の高い将来性を見込んだビジネスなのか。ボケなのであれば一度購入して「JRでしか使えないじゃないか!」と一回突っ込んであげるし、ビジネスなのであれば僕は対象者ではないから無視してしまえるのだが、どっちかわからないので未だに頭の隅っこでsuicaをめぐる論争が繰り広げられているのである。そんなに悩んでいるなら聞いてみたらいいと言われるかもしれない。だがその辺の駅員に聞いたところで頭のおかしいクレーマー扱いをされるか「便利ですから是非ご利用ください」とマニュアル通りのセリフで応対されるのがオチである。これがボケなのか本気なのかは、suicaの発案者でなければわからない。よしんばその発案者に聞く機会が出来たとしても、suicaによってある程度の経済力を得た今になって僕にはっきり「これはボケですよ」と正直に答えてくれるとも思えない。
suicaの話はいいとして、中原昌也はノイズで小説で言動でずっとボケ続けていたのにも関わらず訳の分からない批評や中傷やなんかでボケを無視され続けてきた。要は「さあ僕を殺してみてよ!」ってボケたら本当に腹をナイフで一突きされてきたのだ。彼は遂に辛抱たまらなくなってちゃんとした突込みを待ちきれずに「いやこれはボケですから。突っ込んでくださいよ。もうやってられませんよ。突っ込まれないなら辞めますよ!いやこれからもよろしくってことですけどね。」という矛盾した行為に及ばざるを得なくなってしまったのだ。「お前らバカか!」と。「天然か!」と。「話の前後考えたら分かるやろ!」(関西人じゃなくても関西弁で突っ込んだらいいと思う)と。「ええー!!中原さんもう小説書かないんですかーー!!??超ショックーーー!!」ととと。。。
本当に死ぬ覚悟が出来ている人間が公衆の面前で死ぬ覚悟が出来ていると言えるか。あれは明らかにボケだ。みんなちゃんと突っ込んでやりなよ。声小せえよ!って。