岡崎京子は普段どんなことを考えているのか

昨日は下北沢のカフェ・PIGAでのライブでした。iTunes奏者としては初のセッションライブ、開場するやいなや何故か尋常でない客入りで異様に緊張してしまいました、しかしその緊張とは裏腹にセッションに対する緊張感は高まらないまま演奏を終えてしまったような気がしました。考えてみれば歌に(詩に)音をつける事は何度もやってきましたが、朗読する横で音を出すという経験は初めてでした。これが予想以上に難しかった。どの音を選んでもまるで調和しない、まあ声質にもよるんでしょうが、横で岡崎京子のエッセイの一説を朗読するイベント主催者の北村さんを横目に尋常でない焦りを抱えてパソコンの画面を見つめる自分がいました。途中でわざと音を止めて朗読に耳を傾けるも焦りは抜けず言葉自体が頭に入ってこなかった為、今でも岡崎京子がどんな文章を書いていたのかさっぱりわからずじまいのままです。その後北村さんが死をテーマに自虐ソングを歌いだした頃にはすっかり音を選ぶ気力さえ失いかけていました。途中から彼が鍵の束のようなものをジャラジャラとやり始めた時からいくらか演奏が楽になった気がします。終わり頃のキッチンタイマーのピッっという音とのセッションはそれなりの説得力もあったと思います。今回の演奏でいくつかの課題を得たという意味では有意義なライブだったと思います。がiTunes奏法という新しい音楽の提示としては失敗だったと思います。やはり一回でもリハーサルはやっておくべきです。殊に僕のようなあがり症の人間にとってリハーサルはとても重要だと思い知らされました。イベントの後の打ち上げでマスターから「次は宇宙をイメージするような壮大であったかいのを頼むよ」というリクエストをいただきました。確かに昨今のエレクトロニカを意識していたせいか、少々耳に刺激的な音色を選んでしまいがちでした。そもそもiTunesの音飛び自体が非常にエレクトロニカ的であった為にこの奏法を提示するようになったのです。要は方法論だけが新しくてもダメでそこから何か新しい音を、または多くの人をひきつける音を見出さなくてはならないのです。