ユリイカ増刊・荒木飛呂彦特集を読む前に

これを読む資格を得るべくして、一月からジョジョを読み続け、遂にスティールボールラン最新刊に追いついた。連載当時は絵に馴染めずにドラゴンボールの洗礼を受けるに留まる。今だからこそつじつまが合わないことでも何でも書きなぐってみよう。30を過ぎてやっとジョジョ受け入れたということに特に今更?とかいう焦燥感は無い。そのタイミングは千差万別であって良いと思う。殊に彼の作品には死ぬまでに触れることが出来ればそれでいい(いや触れなくてもいいけど)。そこから何かを生むとか成長するとかいう試練や気負いみたいなものはこの作品からは感じなかった。何も考えずにただ楽しめばいい。サラッと受け流しても良い。なんなら一通り読んで忘れてしまってもいいんじゃないか?それは高度なエンターテイメントだからというだけではない。もっと大きな力がこの漫画にはあると思う。もっと全体的な効果というか、人間に宿る本当の宗教と言ってしまっても過言ではないくらいの自然な影響力があるような気がする。手塚的な輪廻の世界観をまた更に俯瞰で眺めたような奇妙な世界はこの世の中のどこかの次元にどうにかして存在しているのかもしれないわけでそれを知るも知らぬもその人次第だし、知ったとて何が変わるわけでもなし、どちらにせよ世界と世界が影響しあっているだけで私たちはその因果に無意識に同調しているのだから。ジョジョを読むことで自分自身がどう変わるかは問題ではない。変化し続ける世界で変わらないものがあるということを知るということが大事なのではないか。何を言ってるんだかわからないが、第三部であれだけ世界を飛び回ったのに、次は一つの街を舞台にしてそこから一歩も出ずに話を完成させてしまうアラーキーの本当に奇妙な世界観に何となくそういう思いを抱いたというところです。なんというか本当に、重いようで軽いんだなジョジョは。。ジョジョの存在意義は存在そのものである。あの世界がこの世の中に漫画として具体化したとい事実が重要なのだ。それを読む受け手以前にこの世界が何らかの影響を受けているんだと思う。話がでかい。ていうかうざい。まあ漫画として影響受ける漫画家はいるだろうけど、いや、いるのか?果たして受けられるのか?それも怪しい。ただSBRには何だか直接的な影響力があるような気がしてきている。その証拠にアラーキー自体がここへきていろんな新しい漫画の影響を受けている。そこは嘗ての手塚並みの貪欲さに通じるものがあってすごい気迫を感じる。なんとなくだけど、恐竜化していくときのツェッペリの顔とか、手前の人とか物の線が筆みたいな線だったり、とにかくどんどん絵が変化していっている。大統領なんか登場する度にどんどん美形になっていってるし。それは要するに俯瞰ではなく主観的な人間の美学を描こうとする、その為には何だって取り入れるという、全てのベクトルを逆向きにしたアラーキーの次なる挑戦なのかもしれない。