あるブログのコメント欄がヒートアップしているのを観てわかったこと

1.批評家は自分の批評に過敏である。
2.ジャーナリズムの中で主観が虐げられている。
何故主観がいけないのか?何故自分の主観を信じないのか?主観を信じないということは自信がないのだ。だからクールを装って一歩引いた感じで他に意見する。そしてそれが批判されるとヒステリーを起こす。やはり批評家の言うことなんか信用しないほうがよい。
僕は先のブログの書き手の書く文章が好きで彼の連載などをたまに拝読するのだが、別にそれが高尚な批評だと思うから読んでいるのではないし、世の中を俯瞰で眺めた言及だからでもない。彼の観点、主観が好きなのだ。だからこそ変な横槍に屈せずに自信を持って書いて欲しい。自分の主観も信じれずにオドオドしながら書いた文章に言論の自由など与えられるか?主観で書くからこそ自由なのではないか?物書きが主観で書かないと、読み手がいつまで立っても俯瞰を身につけられない気もする。
小林秀雄の文章が評論以前に文学であるのは、もちろん膨大な情報量は去ることながら、俯瞰を経た確固たる主観で書かれているからではないだろうか?誰しも一人の人間なのだ。神ではないのだから世の中を外から見つめるなんて無理だ。だからこそ様々な事象を見つめ、考え、自分の言葉で書けばいい。読み手は別に批評家に答えを求めているわけではない。縦しんばそんな人間がいたとしたら、それはその人の怠慢である。読み手は書き手の文章から一つの可能性という刺激を受けて、それを起点に自分の答えを導き出すのだ。そうやって俯瞰を養いながら社会を形成するのだ。だからこそ批評を批評するという行為は馬鹿げている。批評は答えではないのだから「その答えは間違っているから訂正しろ」なんていうのは筋違いなのである。その批評に違和感を感じたなら、それは自身の中で自分なりに咀嚼し、自分の新しい批評を持てばいい。
本をただせば批評なんてものは小説とあまり変わらないのだ。所詮文章に魅力がなければ伝わらないし、プロの書くものなんか自分の生活が懸かっているから締め切りまでに書かなくてはならない。小説を読んでつまらなかったからといって、著者に「金返せ!」とは言っても、「書き直せ!」なんて言う人はいない。そういう制約の中で書かれているという意味では批評も一つの芸術なのである。つまり、ジャーナリズムはナルシシズムだ!と言ってしまってもいい。ということで又、例の決まり台詞で締めよう。
「至極主観的な言及故、僕はその信憑性を疑うに及ばない。」