アトモスフィア1を発売日に

買ってスィーっと読んだ。なんか”真っ白や真っ黒のコマに文章”が多く絵が少ない。僕らが何となく持っている早川書房のイメージを具現化したような話である。現代感覚というのは明らかに俯瞰がメインストリームに鎮座していて、それは大切な要素なのだけども、あまり俯瞰ばかりで作られていくと、ただでさえ抽象的なものでしかない芸術っぽい感じのもの(絵やら映画やら音楽やら漫画やら)は余計に抽象的に思えてきて結局後に残るのは空虚で冷たい(まさに現代の感覚=クール)感じだけ、衝撃は特に感じないような気がする。この作品もやっぱり全体的な感じで話が進んでいて、アイデアとか絵とか思い入れとか実験性などもガンガン伝わってくるのだけども、それは僕が作り手っぽい感じだから何となくわかる気になっているだけだったり、感受性を高めに設定された人間だからだったりして、多分こういうのが広く読まれないだろうなあと思ってしまうのは、その点なんじゃないかなあと思った。要するに両極端。売れている漫画やら音楽やらは抽象性をいかに感じさせないかに重点を置いて、そんな表社会に馴染めず、しかも変えようとも思えない感覚派のクリエイターたちはどんどん引いた感じの目線になって、いかに無関心を装って自分の中で全部を賄えるかで躍起になっているのではないかなあ。だからというわけじゃないけど、ここで一旦捨てて欲しいのはそういう確固たる個性。あっ違う、自分も全体的なこと書いてる。。そうじゃなくて。まあでもアトモスフィア読んでいろいろ考えてみるに、70年代くらいのそういう芸術って作品自体はイッちゃっててブッ飛んではいたけど作者の状態はちゃんと俯瞰と主観の中間にあって熱すぎず冷たすぎずの状態を維持しながら作っていたんじゃないかと思ったりした。そういう意味では村上隆は中間な感じかもしれない、ただ動いているフィールド(なにフィールドって?これが抽象的。)や培ってきたものが個人的に好きじゃないけど。あーあとそうそう、今のクリエイト感覚についてもう一つ。作品に知識や思想が反映されるのは当たり前なんだけども、その至らなさについての言い訳も一緒くたになって詰め込まれてるっていうケースが結構ある。この辺のことあまり知らずに盛りこんじゃんてます!おりゃー!っていう潔さがないんだよなあ。なんかあんまりこの辺のことよく知らないけどそういうとこで勝負しようって思ってないし、ただこの作品の流れで脳裏に残ってた断片がしゃしゃり出てきたからその感性に逆らわずに・・・ってあーもういい!ってなるんだよなあ、なんか。手塚治虫とか宮崎駿はよくインタビューで言い訳してるよね(笑)。でも絶対作品では言い訳してない、しかも言い訳っていうか結局は時間と金の問題っていうオチの話だし。でもその時間と金っていうのがだいたいにおいて多分一番問題なんだけど、それは一番初めに設定される制限だから後で何言ってもしょうがないんだよね。話があちこち飛んでいますが、何故飛ぶのかというと、考えながら整理しないで書いてるし、テレビ観ながらだからです!そして話が結論まで行かないというかまとまる気がしないので
つづく
って書いて終わらそうとしているからです。つづくって書いて多分続かないから。せめてアトモスフィアのことだけでも〆ておくと、2ではもう少し具体性が出てきて凄い作品に仕上がるんじゃないかなあと勝手に期待している。もう少し視野が狭くなって最後のほうには「赦す」とかどうでもいいことになっていて、言いたいことが一個バーン!と出てきて終わってくれるといいなあ。。もしくはストーリというか話のベースがしっかりしていて普遍的だからいろんな人がこれをもとに漫画を描いてそのトータルで見えたものがソレです、みたいなことにしてくれてもいいと思う。せめてもう少し温度を上げてくれ。この辺に熱がないと、熱い奴らが皆IT業界に行ってしまう。あんな夢も希望もない所へ・・・。うわー毒づき始めたよ、いやホントまとまらないから
つづく