センスオブワンダーをやりたかった

頭の中で円(作品エリア)を書いてその中に閃いたアイデアを元に捻り出した素材を転がしておきます。ある程度溜まって来たらそれを使ってビルを作るように積み上げていきます。いらない素材は躊躇せずに円の外へ放り投げ、また足りない素材があったら即中断してその素材を捻り出すことに専念します。素材が出来たらまた組み立てを再開。そうやって積み上げて出来たビルが作品になるのです。
例えば画家が一定の水準の絵画を極めると個性を求め、子供が書くような不安定で大胆なタッチに縋ったりするのは、上のような創作プロセスの中に垣間見える幼稚性が露呈した好例ではないかと思います。ピカソが絵を書いている過程をひたすら撮影しただけの映画があります。それを観ていただければ分かりますが、彼はベースとなる線を書き散らした後、その線の間を色付けするとは限らず、時には下書きを無視して上から塗りつぶしてしまいます。そしてその色の上にまた新しい線を引いたりしながら一枚の作品を作り上げていきます。具体的な絵が抽象化したり、逆に抽象的な図形が具体的な絵になって完成したりします。これこそ技術と幼稚が見事に融合した創作だと思えるようなプロセスを披露しています。そして更に驚くことにこの映画は、その撮影で書かれた作品は撮影後に全て破棄するという条件で制作されたという逸話があります。つまりは、そこで書かれた作品は作品ではなく、あくまで制作過程を披露する映画の為に書かれた素材に過ぎなかったということをピカソは作品を全て破棄することで主張したのです。
あっなんか誰でも知ってそうな(誰でもピカソ的な)ことをつらつら書いてしまいましたが、こんなこと書きたかったんじゃないんですよ。。僕が考えたことはこのビルを建ててる時の作者とビルとの距離です。それが今と昔で違うのではないかと思ったのです。この前書いた現代感覚は全体的っていう話なんですが、最近のクリエイターっていうのは何かビルを遠めに見ている。あービルだと分かりにくいから街にします!円の中に街を作っていくってことにしてください(シムシティ!)。そう、最近の人は遠めなんです。まさにシムシティくらい見下ろしてる神目線ね。昔の(いつだよ?)人はやっぱり、現場にいてあくせく動いてる気がするんです。ビルならビルだけ見える位置にいてしこしこ作ってるっていう感じで。でも最近の人はビルの周りも見える位置に常にいてそこから指示してる感じ、なんなら指示も最初だけまとめて済ませて街が出来るのを眺めてる気さえしますね。これは何ではっきり言えるかっていうと自分がずぅっとそうだったからです。もう現代っ子丸出しって感じで引き目引き目。俯瞰俯瞰で曲を作っていたからです。それに気づいたのは20を過ぎてからだと思います。あーだからオリジナリティを追求とか恥ずかしげもなく言えてたんだなーと。。それまでの作品は1年くらい経って聞くと恥ずかしくて目も当てられない感じだったんですが、それに気付いてからは当時やっていたバンドのカラーも見え初めてもう曲も作る必要ないくらいバンド自体が作品になっていたと思います。それ以降の音源は今でも聴けますハイ。まあ音楽で飯食えてないのはそことは違う問題で完全に自分の意欲とか社会性の問題なのであしからずなんですが、要はその全体イズム、それが現代芸術に秘かに蔓延っているのではないかと睨んでいるのです。ワケ分からないもんが悪いとか抽象的過ぎるというわけじゃないですよ。細かいところの話なんですけどね、細かいって言っても細部に拘ってないとかいうことじゃなくて、微妙なニュアンスの違いっていう意味で。その街(作品)と作者の距離の違いによって生まれる差っていうのも又、抽象的な違いで説明できないし、どっちが良いとも言えないのが正直なところ。たまたま距離が遠い作り方が僕に合ってなかっただけかもしれないし・・・。まーーーーーでもいつも以上に頻繁に漫画を読んでいて、昔の漫画は読んでいて絵で止まるんですけど、今の漫画は止まらないんですよねぇ。どこで昔と今を区切るのかが微妙なところなんですが(思い切って大友克洋で分けてしまってもいい)。今の漫画で止まるのは多少ありますよ、ほら西原理恵子とか(今か?漫画はカラーで成功しないって前に書いたけどカラーでこそ凄いってのもある。あたしンち他)松本大洋とか。でもサイコとか読んでても止まらない、浦沢直樹なんかも上手いのはわかるけどやっぱ機能的(意図的?)で止まる必要すら感じない(初期の作品はたまに止まったかも)。まあ研究しようと思わない限り止らない。はっきり言ってしまうと今の漫画ってセンスが無いんだよ、いやセンスを履き違えてるかセンスを無駄にしてる。漫画ばっか読んでるから漫画に焦点が行ってしまうんですが、多分他の分野もそうだと思うなー。ほら今の世の中ってもー広告世界でしょ、隙間さえあればどこにでもポスター貼るくらい広告大旋風吹き荒れてるけど、目に止まる広告ってかなーり少ない。昔のポスター見てよ!凄い目に止まる!あっ西島大介の絵ってでも目に止まるね、すごい。本の表紙で目に止まる率ナンバーワンだと思います。それくらい素晴らしい。でも漫画はやっぱり止まらないなぁ。それは多分広告っていう既製の具体性があってその距離で物凄いセンスで書いてるから良いんであって、漫画になるとやっぱり全体的だから?って思ってしまうのです。最初に読んだディエンビエンフーなんかは割と良い距離感だったし、彼のHPのイラストをバンバン観ていた時期に読んだからイメージが先行してて目に止まりながら読めたけども、そういう概念なしで読むと違って見えてしまったのです。アトモスフィアはサァーーっと読んじゃったけどその主人公の絵が描いてあるSFマガジン5月号の表紙は硬直したもん。あっそれで思ったけど江口寿史の不思議な絶対的存在感もイラストのせいだ、イヤ違う、ってなってるけど今「すすめ!!パイレーツ」読んでも面白いと思えないということはやはり絵のセンスや漫画と広告業界の関係性を強めた点が大きく作用しているのではないかと思う(やけに見た目が若くて恐いっていうのもある)。あーーここまで書いて自分の気分の問題に過ぎなかっただけだったらと思うとお腹が痛くなってしまいます。うわー長い!また話がまとまらなくなってきてる!そういう時は筆を置くに限るとこの前勉強したので
つづく

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http://d.hatena.ne.jp/ending/20060320#p1
そうかー彼も反戦非戦に違和感持ってたのかー。未だにオノヨーコが想像してくださいってポスターで言ってるんだもんな、生ぬるいよほんと。生ぬるいっていうか反戦非戦ってリアクションだからなんだよきっと。ノーリアクション出来たら戦争は無くなるかもね。アメリカが今度はイラン攻撃か!?とか反応してるうちはダメだね。それこそ戦争やめる派とやめない派が戦争するくらいでないとダメだと思うよ。思いっきり矛盾するんだけどね。