大日本人はフェイクドキュメンタリーという形式を

技法として選択したのではありません。映画の中で唯一有り得ない視点であるカメラというものの存在を必然的なものにする為にこの形式を採ったと思われます。もう一つの視点であるCGを使った戦闘シーンも毎回テレビで放送されているという設定を挿入することでカメラという視点を正当化させています。松本人志はこの映画の中で突っ込みどころ満載のキャラクターを演じる傍ら、映画そのものの突っ込みどころを極力解消しながら制作を進めたのではないでしょうか?
例えば映画本編が終わると当然のように黒地の画面にスタッフロールが流れますが、あの形式も一体誰がそう決めたのでしょう?我々はあの時間一体何をしていればいいのか?そこに疑問を持った彼はその形式を受け入れながらも画面の下半分を使ってコントを流しました。今回は映画本編の流れを汲んだ内容のコントでしたが、おそらく彼の中ではある程度基準を満たしたものなら何でも良いと考えていたと思います。それこそ野見さんのようなおっさんが延々と何かについて語っている映像でもよかったのです。とにかく黒バックに文字が垂れ流しという無駄な時間を有り得ないと捉えたのです。