映画「HOT FUZZ」を日本で劇場公開する理由〜フェルメールを芸術鑑賞することはできない

HOT FUZZを観てきました。映画愛に満ちたとても濃厚で緻密なエンターティメント映画でした。笑いの要素もシュールなものからくだらないギャグまでうまく使い分けられていて、全てを理解できなくても、全ての人がどこかで共感できるような作品になっていたと思います。この映画は日本での劇場公開が予定されておらず、ファンの署名運動によって公開に至りました。しかしながら、昨今の日本の現状を考えると、劇場公開の予定が無かったのも当然だと思いました。なぜならこの映画には日本で公開する理由がどこにも見当たらないからです。まず日本人なら誰でも知っている、というような俳優が一人も出ていません。この映画の監督の出世作を知っている人も少数です。そんな状況下でこの映画を売れといわれてもどう宣伝していいかわからないのです。とにかく面白いから観ろ!と言われて誰が映画館に足を運ぶでしょう?作品がどんなに素晴らしくてもそこに関わる要素に既知感というか、大衆性(安心感)が無いとこの国の人間は動きません。未知なる創作への探究心など誰も持ち合わせていないのです。この映画に理由をつけるには署名運動しか無かったのです。幸い、ある程度の日本人がこの作品に興味を示していることが明らかになり、劇場公開が実現しましたが、仮に署名運動無くしても最低限の観客動員数は見込めるという理由だけではやはり公開する理由にはならなかったでしょう。なぜこのような絶望的な状況が作られるのでしょう?業界の事情はさておき、僕はシンプルな意見を述べます。この国には芸術鑑賞という概念が無いのです。たとえば来月からフェルメールの作品展が始まります。彼はオランダの有名な画家で素晴らしい作品を世に残しました。おそらく沢山の人が会期中に美術館を訪れ、大いに彼の作品に感銘を受けることでしょう。しかしながらこの行為は正しい芸術鑑賞ではありません。何故なら、フェルメールの作品が芸術的に優れていることを承知の上で美術館に赴いている、鑑賞出来るという確信を得た上で彼の絵を観に行く人が大半だからです。芸術鑑賞というのは芸術だとわかっているものを鑑賞するのではなく、芸術だとは思っていなかったものを鑑賞することで芸術性を見出す行為のことを言うのではないかと思います。では全くフェルメールのことを知らずにたまたま通りかかった美術館に入り彼の作品に衝撃を受けた、という場合はどうでしょう?これも残念ながら芸術鑑賞としては50〜60%くらいでしょう。なぜなら美術館に入るという時点で既にそのなかにある物が芸術であるということを認識しているからです。そう、芸術鑑賞というのは日々の生活(労働)の中に点在する未知の価値観の発見なのです。話を「HOT FUZZ」に戻しましょう。さてこの映画に関しては僕も芸術鑑賞をしたとは言えません。僕はこの映画の監督、エドガー・ライト氏の前作がカルト的人気を得ていることを知ってますし、その映画のDVDも持っています。「HOT FUZZ」も公開前から評論家たちの評判が良いことを知っていましたし、署名運動がネット上で行われていることも知っていました。すなわちエドガー・ライト氏が素晴らしい映画監督であることも、「HOT FUZZ」が素晴らしい映画であろうことも既に知った上で鑑賞しに行ったのです。何よりも僕は映画館に赴いているわけですから・・・。ただし、ここで重要なのはこの映画を知り得る鑑賞眼を持ち合わせていたかどうかということです。もしこの映画が署名運動無しに公開されていても、やはり僕は映画館に赴いたでしょうし、公開されずともDVDを買ったでしょう。要するに多くの人が普段から正しい芸術鑑賞の意識や心がけをしているだけで、無名の芸術が円滑に機能するということを言いたいのです。では正しい芸術鑑賞とはどういうものでしょう?一昔前なら、夕日が綺麗だとか、川のせせらぎに耳を澄ますだとか、そんな何気ないことで良かったかもしれません。ですがもう、そのような行為さえ芸術鑑賞につながるということを嫌と言うほど聞かされてきたのではないでしょうか?しかも(これらはどこまで普及しているのか知りませんが)、芸術とは思っていなかったものに芸術的価値観を見出そうとする芸術運動がこれまでにいくつか起こっていて、先に述べた日々の中の芸術が既に「日々の中の芸術」として世の中に広められているのです。この事実から僕は二つの推測を立ててみました。一つは芸術の発見が成され過ぎ、芸術鑑賞の対象物が少なくなってきて、日本人がそういった意識を持つことを止めてしまった。もう一つは芸術分野において正しい芸術鑑賞という行為がクローズアップされたことによって、そういった行為がどこか特異なものに映ってしまい日本人が芸術鑑賞に抵抗を持つようになってしまった。これらは推測に過ぎませんし、他にも様々な要因が重なって現在の芸術分野が存在し、芸術市場が形成されているわけです。なによりもそうした大衆性の増幅が産んだ鑑賞眼では利便性に富んだ利己的なものしか生まれず、それが一定の価値を持ったままでいる限り、一人一人の価値観は揺らいだまま、焦点を合わせる事無くネガティブで排他的な野望に還元されていくでしょう。そこを打破するにはまず一つでもいいから、自分にとっての芸術を日々の中で見つけておくことです。一見、もうどこを探しても見つかりそうにない未知の芸術もまだまだそこかしこに転がっていて、ちょっとした意識の持ち様や簡単な訓練によって、今でも正しい芸術鑑賞を行えるということを知って欲しいのです(厳密に言えば、訓練次第であのフェルメールさえ正しい芸術鑑賞の対象に成り得ます!)。その方法についてはまた別の機会にお話させていただきます。まあこれは僕がレクチャーするまでもなく、ちょっと考えれば誰でも気付くことだと思いますが。