呆けたおばあちゃんの絵とカリスマ音楽家のライブ

音遊びの会 / 「音の城/音の海」 http://shop.store15nov.com/ht/GethtmlProductDetail.do?productId=00416
大友良英などが知的障害者の方々と共に演奏して作り上げた一つの音楽の在り方。まだ聴いていません。
僕の東京のおばあちゃんは呆けが進行しているらしくて老人ホームに住んでいます。僕はおばあちゃんが呆けてから一度も会っていませんが、彼女の書いた落書きを観て驚嘆したことがあります。何て自由で楽しくて可笑しくて可愛くて自然でサイケデリックでお洒落な絵を描くんだろうと思ったのです。そこには芸術性をも超えた強烈な癒しさえ感じてしまいました。スーパーのチラシの切れ端の裏に書かれたその茶目っ気たっぷりのキャラクターたちは今にも紙から飛び出して動き回りそうな笑顔を振りまいていました。本当にこんな絵を描ける彼女は呆けているのか?と思いました。呆けている人や障害者と言われる人を観ていていつも思うのは、果たしてこの人たちにとっての障害とは何なのかという疑問です。それは一般的な社会生活においての障害だということは解りきっているのですが、しかしもし世界中の生物が一般的に観て何らかの障害を持っていたとしたら、まあ世界はいまよりずっと平和でしょうね。話が飛びましたね。すいません。知的障害者に障害があるとすればそれは健常者が作っているのではないでしょうか。例えばエスカレーターに乗れない障害者がいるでしょうが、それはエスカレーターというものがあるから乗れない障害者がいるのです。僕らは本当に障害者との共存を余儀なくされた正常で全うな人間なんでしょうか?健常者が障害者を介護するなんていうのも僕は思い上がりにしか思えずそういう活動には踏み込めません。僕は健康で何の障害もない人間ですが、とてもこの世の中では呼吸がしずらくて異常に思える瞬間に幾度となく出くわします。僕らは本当に正常なのでしょうか、障害者は本当に障害を持っているのでしょうか?正常というカテゴリーももしかしたら人間の持つ一つの障害なのかもしれません。考える、理性を持つということは知的な障害なのかもしれません。それを一方的に健常者からみて障害者という意識で生活していくということは一体どういうことなんでしょうか?それは言ってみれば健常者にとって障害者が生活の障害になっているとでも言っているようです。別に差別問題を語る気はありません。知的障害について深い知識もありません。そういう問題提起をしたいのではなく、要は何かを作るときに改まって健常者と障害者を区別する必要性について疑問に思うのです。これは健常者が書いた絵で、こっちは障害者が書いた絵ですという説明や前置きが必要なのかという疑問です。これはAという人がが書いた絵です、こっちはBという人が書いた絵です。どちらも素晴らしいですね。これでいいのではないでしょうか?ですから上の作品にしてもAさんとBさんがCさんDさんEさんFさんと一緒に演奏した作品です、でいいんじゃないかなとふと思ったので聴いてもいないのに長々と書いてしまったのです。芸術という自由な表現において「健常者と障害者」というテーマが果たして必要なのかという疑問を抱いてしまったからには書かずにはいられませんでした。そんな問題を踏まえた上で敢て説明責任を果たすべく、または作品に興味を持ってもらいたくてわざわざそういう前置きをしているのだということも何となく書いてる最中に想像しているし、実際僕も説明をみて興味を示しているわけですが、それでもやはりこういう疑問はブログにでも書いておきたいと思ったのです。
まあこういう作品に興味を示す人が少ない(だって普通のレコード店じゃ買えないっていう状況ですよ)というのもかなり疑問なんですけども。

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アマゾンで買えますね。