鈴木先生・二巻

鈴木先生2/武富 健治
熱い。とことん熱い。一巻で発揮した愛おしいくらいの時代錯誤的な劇画タッチが熱量そのままに現在の漫画へと進化している。一巻よりも漫画という表現自体の追求に力を入れているように思う。巻末の的確な批評ともとれる解説中に、あらゆる面においての過剰さが本気かギャグかわからないギリギリの世界観が作者のスタイルとして完成しているというような指摘がある。こういう描き方、言い回しが笑えるようになったのは最近のことだ。シリアスな書き込みとセリフを間の取り方やデフォルメによって笑いへ転換させるというそれまでギャグとして機能しえなかった方法論が一般に受け入れられたのは90年代後半のことだ。この「鈴木先生」のような作品が受け入れられるには、しりあがり寿おおひなたごうのようなギャグとしてそういう表現を部分的に取り入れている漫画家(はっきり劇画タッチではないけど-しりあがりは少女漫画を取り入れてる)の台頭を待たねばならなかった。それくらい漫画として古くて新しいものだったのだ。それに、実際「鈴木先生」はギャグとして劇画タッチで描かれているわけではない。テーマが教育であるし、ストーリーも決して明るいものではない。ところがそんな鈍重な作品の要所要所で僕らは思わず噴出してしまう。それはギャグとして笑っているのではない、そういう人間の無意識下での過剰な本能の露出を自覚して何だか可笑しくなってしまうのだ(ギャグの出発点?)。そしてこの主人公もまた見事なまでに現代人と一昔前の熱血先生が混ざったような感受性と言語感覚を持ち合わせているからそれがまた妙で面白い。なんというか人間のダイナミズムみたいなものが伝わってきて胸を打たれて笑いがこみ上げてくる感じなのだ。だってその証拠に当時の人がどう受け止めていたのか知らないが「まんが道」はやはりそういった意味で笑えるから。漫画界の厳しい現実を突きつけられてショックを受け満賀道雄が真っ黒になる度に大笑いしてしまうのはやはりそれ以降のシュールなギャグ漫画表現を通過したからこそ身に付いた鑑賞眼ではないだろうか。この世界観はやはりそういったところで漫画表現を模索している羽生生純三宅乱丈とはまた微妙に異なる(ていうか全然違う)新しい可能性だと思う。まあ単純に劇画に新しい価値感を見出しただけともいえるけど。